北宋 建窯
曜変天目(曜卞天目・芒曜天目・毫変盞)
この茶碗は広義には曜変天目に属するが、現存する殆どの曜変は油滴の曜変である。それに対し、これは禾目の曜変であり、現在では世界でただ一点の存在となる。
また、中国では兎毫盞の曜変を毫変盞という。「茶録・北宋」には、この世に一つしかなく、値がつけれないほど高く、線状紋が万遍なく全体の器面に現れていると書かれている。
日本では、1420年頃の禅林小歌に、曜下の文字が登場する。これは、下=卞=弁=冠をあらわし、冠の中で曜=星が輝くことを意味し、曜卞天目と言った。そして1511年には、能阿弥相伝集を得て、初めて君台観左右帳記に曜変が登場する。曜変の前段「地いかにも黒く、こき瑠璃、うすき瑠璃の星ひたとあり」これを曜変天目という。日本の全ての曜変天目はこれに属する。後段「又、黄色、白色、濃く薄き瑠璃なとの色々混じりて、錦のやうなる薬もあり」これを芒変天目という。前段と後段を併せ持つものを芒曜天目という。
芒曜天目とは、芒=禾である為、禾目の曜変天目であり、星が錦=織物の様な模様で囲まれた部分でのみ、輝いている。まさしくこの茶碗の説明である。また、芒曜には光彩や斑紋の問題は存在しない。それから釉薬には、鉛やタングステンは使われていない。現在のコピー品は、化学顔料を塗り自ら発色する茶碗が多いが、作りや釉調、釉薬の出方、全てにおいて稚拙であり、直ぐに現代物とわかる。拡大鏡「120倍程度」で見れば、禾目の出方など建窯瓷(二玄社)に書かれた通りである。
しかし、この茶碗の線状の部分は光彩の様な輝き方をする部分がある。また、芒曜天目ができる可能性は、曜変天目10個に芒曜1個の割合で有るため、おそらく千年前から世界に1点のみと考えられる。因みにこれは、伝世品であり、伝来もなく名古屋で、発見された為、本能寺の変で消失した信長所持の曜変天目ではないかと噂された物でもある。現在、曜変天目と違い芒曜天目の研究者は存在しないため、自説を添えた。
Wanchon筆
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参考資料
・禅林小歌(1415)
・君台観左右帳記(1511)
・建窯瓷(二玄社)